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北海道の鉄道の内容を中心に自身の知識も含めながらブログの記事を日々更新しています。札幌市在住のため、主に札幌圏を走行する列車についての話題です。

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札沼線の終点だった新十津川駅

今回は札沼線の終点だった新十津川駅について。「しんとつかわ」と読みます。









昨春の廃止まで、おそらく日本一最終列車の出発が早い駅だったと思います。元々は3往復の列車が発着していましたが、2016年3月ダイヤ改正を機に、本数が一気に1往復に減らされ、新十津川駅にやってくる列車は午前中のみに。最終列車は9時40分発でした。

2018年3月のダイヤ改正で新十津川駅発車時刻が10時ちょうどに繰り下げられています。

管理者もかつては、こうしたローカル線でも終着駅は大きな都市だったり、街だったりするものだと思っていましたが、ネットで新十津川駅を調べた途端、漠然として記憶があります。

終着駅にも関わらず、何もない。

駅員もいないということに衝撃を受けました。同時期にこちらも廃止された増毛駅についても調べていました。

理由は、もう20年くらい前に運行されていた「増毛エクスプレス」を思い出してのことです。当時はニセコエクスプレスで運行する列車にも関わらず、訳のわからない漢字表記の列車に充当されていたことを鮮明に覚えています。ニセコエクスプレスで運行されるのだから、増毛という場所はさぞ観光地なのかと思いきや、無人駅でホームも素っ気ない感じでこちらも衝撃を受けた記憶があります。

この頃あたりから、北海道の終着駅は想像していたものと違う感覚を覚えるようになります。

「行き止まりの駅=巨大都市、大きな街」という方程式が管理者の中で崩れていきました。

それから10数年が経過して、ようやく歴史や敷設された背景を少し調べるようになりました。北海道のローカル線の場合、産業や冬季などの厳しい時期の移動を考慮する目的で敷設された場合がほとんどで、産業が衰退したり、モータリゼーションが進展すれば、必然的に利用されない状況を生み出すことは国鉄分割民営化直後あたりで、既に結論が出ていたと思います。

札沼線の場合、新十津川駅の場合は約3km移動すると函館本線の滝川駅にたどり着くことができます。但し、新十津川町から滝川市へ行く場合、石狩川を横断しなければなりません。今でこそ道路(橋)もあり、路線バスも運行されて不便はありませんが、かつては巨大な石狩川を船で渡らなければなりませんでした。

しかもこれが昭和期まで続いたと聞きます。

冬季になると、河川が増水し、ときには渡ることが困難な場合もあったことでしょう。新十津川側が陸の孤島状態になることもあり、石狩沼田~現在の新十津川まで鉄道が敷設されたのを機に、北側と南側の双方から建設が進められ、1935年に全通しました。

しかし、太平洋戦争が激化すると、並行道路があって代替輸送が可能という理由で石狩当別~石狩沼田間が不要不急路線として撤去されました。

戦後、1956年までに全線で運行を再開しましたが、新十津川~石狩沼田間が利用不振によって先行して廃止され、以来、新十津川駅まで昨年の5月まで鉄道が運行されていました。



石狩月形以北は、交換設備がないので、当然新十津川駅も1面1線の棒線駅です。駅舎とホームの間隔が空いていることから、廃止された札沼線の他の駅同様、貨物積卸線を有していたと思います。



駅ホームから石狩沼田方を見ます。すっかり宅地化されており、レールが数百メートルほど延びているだけでした。





駅前では鉄道グッズを購入することができます。記念撮影もできましたよ。







駅前の様子。駅前には空知中央病院があります。

病院があるにも関わらず、通院で鉄道を使うことはほとんどなかったと思います。というか、使うことができませんでした。1往復しか設定されていないため、浦臼側から通院でやってきても帰りの列車に間に合わない場合もあったと思います。浦臼駅前までバスが通っており、滝川駅までのバスもあります。マイカーを保有していなくてもバスで移動可能だったこと、末期の利用者の大半が鉄道愛好家だったことを踏まえると、地元の足として存続するには厳しいものがありました。

かつて管理者も、日本一早い最終列車とブログ記事に表記してバッシングを受けたことがあります。でもなぜ、それでバッシングを受けなければならないのか。事実を記載しているだけです。

当時はまだ「鉄道路線を廃止にする=JR側の何の根拠もない強行策」のような雰囲気が流れていた時期でした。年数を経過していくにつれ、北海道の不採算路線問題が全国にまで知れ渡ると、昨今のように徐々に風潮が変わりつつあります。

そして、今春のダイヤ改正から、利用僅少な駅について、一部自治体管理に移行します。

これは大きなチャンスだと思います。

いかにして利用僅少の駅を維持することが難しいかということを自治体側は身をもって経験することになるでしょう。

おそらく、その自治体管理に移行する駅の中から、数年で廃止になる駅も出てくるはずです。どの沿線自治体も共通して財政難に苦しんでいるのは言うまでもありませんから、そのような中で、ほぼ利用がゼロの駅を年間数十万~数百万かけて維持するのは、どう考えても費用対効果のバランスがとれていません。

そうした機会を境に、道内における鉄道網の見直しが進展し、晩年の札沼線の末端区間のような実物大の模型を走らせているような状況を少なくしていく必要があります。


時間がかかってしまいましたが、札沼線末端区間の駅について全てお知らせすることができました。

新十津川駅の今後の予定について、駅舎は昨年の10月10日で閉鎖されました。駅舎は来年度中に解体される計画です。

駅跡地は市街地が分断されている状況であり、交通アクセスの改善、憩い・交流の場などを基本方針とし、道路の敷設などを盛り込んだ駅舎の跡地が整備される計画です。

なお、今年の5月に新庁舎への建て替えが予定されている新十津川町役場の庁舎南側前庭には、新十津川駅のプラットフォームが再現される予定です。











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コメント
10009:嗚呼、新十津川駅。 by 天寧 on 2021/01/05 at 19:12:27 (コメント編集)

こんばんは。
ついにこのシリーズも終点まで来ましたね。
私が列車で新十津川まで初めて来たのは平成になった直後の1989年1月16日でした。
キハ53-500での列車で、乗り心地はひどかったです。新十津川駅でそのまま折り返しましたが、乗客は私だけで、気さくな運転士が話しかけてきていろいろ話しているうちに出発時間を過ぎてしまったという楽しかった思い出があります。
この駅は1997年3月31日まで「しんとつがわ」と呼ばれていました。翌日、留萠が留萌になった日に「しんとつかわ」に変えられました。
この駅から先は私が3歳の時に廃止されているので全く記憶にありません。それまでは111キロを超える長い路線だったんですね。
今の国道275号線も札沼線に沿った道道札幌沼田線(11号)といっていて、当時からライバル関係にあったようです。

10018: by 管理人 on 2021/01/06 at 20:21:45

>>「天寧」さん、コメントありがとうございます。

当時の札沼線末端は、キハ53形500番台やキハ54形500番台などがメインで使用されていたと思います。

いずれも排雪機能で有利な大出力車です。

ただ当時は車両の新製よりも改造車でまだ車両を回していた時代で、路線によっては不便だったり、乗り心地が悪かったりしていたと思います。前者の場合はワンマン運転対応ではなかったはずで、車掌も乗務していたのではないでしょうか?

並行して国道275号線が設けられていること、モータリゼーションの進展、滝川や砂川へ道路や橋で渡れるようになりました。よって、札沼線末端区間の役割は既に終えていたと思います。

よく令和の時代まで残りました。少し沿線とゴテゴテがありましたからね。でも使われていなかった以上は鉄道としての役割は終えるべきなので、今後沿線ではバスをメインとした新しい公共交通の在り方とともに発展してくれることを願います。

10043: by 龍 on 2021/01/09 at 23:16:45 (コメント編集)

大井川鐵道に動態保存されている蒸気機関車4両のうち、2両(C56 44とC11 227)は新十津川駅が終点になる前の札沼線で活躍していた時期があります。

C56 44は、1936年3月6日に落成し、札幌機関庫へ新製配置されました。同機が配属された当時、既に苗穂工場はありましたが機関庫は札幌駅に隣接して設置されていました。1936年7月に苗穂機関庫が発足。こちらに移転する形で1937年3月10日に札幌機関庫は廃止され、これに伴いC56 44も苗穂機関庫に転属しています。

C56 44は1936年10月5日に陸軍大演習が恵庭村で開催された際、恵庭〜札幌間でお召し列車を牽引しています。当時の千歳線はまだ国鉄に編入されておらず、北海道鉄道札幌線という私鉄運営のローカル線でした。新札幌駅は存在せず、東札幌駅経由の旧線ルートで、定山渓鉄道が苗穂駅まで乗り入れていた頃です。

第2次世界大戦が始まると、C56形は軍事供出でタイやビルマ(現在のミャンマー)に送られます。軽量な小型機関車でありながらテンダー式のため長距離運用にも使用できる点が注目されました。C56 44は1941年12月18日付で日本の鉄道省(国鉄)の車両としては廃車となり、タイへ送られ泰緬鉄道などで使用。戦後はタイ国鉄の735号機関車として活躍し、1970年代半ばに引退。現地の駅構内に放置されているのを1978年6月に日本の研究家によって発見され、1979年6月に日本へ帰国。大井川鐵道で動態復元されました。なお、北陸地方の七尾機関区に配置されていたC56 31(タイ国鉄725号)も同様の経緯でタイに送られ、C56 44と共に帰国後は靖国神社の遊就館で静態保存されています。戦時供出されたC56形は全部で90両。日本に戻ってきたのはこの2両だけです。

C11 227は1942年9月9日に落成し、同年10月10日に苗穂機関区へ新製配置され札沼線で、1969年4月2日に追分機関区苫小牧支区へ転属して日高本線で、さらに1974年3月11日に釧路機関区へ転属して標津線でと、こちらは現役時代を通して北海道で活躍しました。1975年4月24日に標津線の無煙化で引退し、同年6月25日付で廃車。大井川鐵道へ譲渡されました。

10051: by 管理人 on 2021/01/09 at 23:47:45

>>「龍」さん、コメントありがとうございます。

SLを貸し出したり、なぜ大井川??と思っていたら、そんな密接な関係があったんですね。

コメント内容について興味深く拝見しました。こちらの方でも調べてみます。ありがとうございます。

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