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北海道の鉄道の内容を中心に自身の知識も含めながらブログの記事を日々更新しています。札幌市在住のため、主に札幌圏を走行する列車についての話題です。

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日本一の赤字路線だった美幸線〜今も残る廃線跡

北海道の赤字路線でも救いようのないレベルの路線だってあったのです。

その1つが全国一の赤字路線と言われた美幸線。



現在の宗谷本線の美深駅と仁宇布駅を結んでいました。

仁宇布駅はあくまでも当初の予定の途中の駅。「美」は美深町の美、「幸」は北見枝幸の幸で美幸線です。元々は北見枝幸まで結ぶ計画があった路線でした。

同線の目的は、北海道北部開発の拠点であった北見枝幸と宗谷本線を短絡する目的で計画された路線です。また、札幌や旭川といった大都市へも、美幸線がなければ、興浜北線が天北線の浜頓別駅に接続して南下するルートか、全通が予定されていた興浜線が雄武(おむ)で興浜南線に接続し、興部で名寄本線に接続する2通りがありましたが、いずれも遠回りで長年にわたって請願が続けられていました。

1976年に全線開業予定でしたが、1979年に完成間近で工事は凍結され、全線開業には至りませんでした。路盤がほぼ完成していた北見枝幸~歌登間を先行開業させる動きも一時ありましたが、興浜線などのように分断されたままになることを危惧した沿線は、あくまで一括開業にこだわり、結局開業することなく廃止されました。

元々は北見枝幸と札幌や旭川を短絡する目的の路線だったため、部分開業は想定されておらず、既開業区間の輸送は極めて少なく、国鉄最悪レベルの赤字路線となりました。営業係数(100円の営業収入を得るのにどれだけの営業費用を要するかを表す指数)も晩年は4,731、輸送密度は24人/日でした。

実際に沿線は途中駅があった場所でも民家(農家)は数軒で、原則として何もない場所に敷設された路線でした。もちろん、1981年に第1次特定地方交通線に指定され、1985年9月17日に廃止されました。

美幸線は第1次特定地方交通線の中で唯一、1日の利用者が100人を切っていた路線でした。100円の収入を得るのに、5,000円弱損失しなければなりません。

ここで現在の様子。とはいえ、撮影は2年前です。





終着の仁宇布駅は、有志らの手によってトロッコ王国美深となっています。春から秋にかけての営業で、今年度の営業は終了しました。美深駅から車で30分、デマンドバスがあるそうですが、事前予約が必要のようです。





トロッコ王国の敷地内には、道内でも数少ない583系が!581系といった方がよろしいのでしょうか?

「サハネ581-19」が置かれています。訪問時が晩秋で既に営業が終わっていたので、ブルーシートで冬囲いしていました。







トロッコ体験区間については、線路はそのままの状態で残っています。



美深方に行けば線路は撤去されていますが、橋梁などの廃線跡はいまだに残っています。






仁宇布市街はこんな感じ。コンビニすらないです。


元々が短絡目的という性格上、途中の区間についてはあまり意識されません。北海道では似たような例で石勝線があります。

石勝線も旧夕張線を延伸し、札幌と十勝地方を短絡する目的で敷設されました。現在は並行して高速道路が伸び、航空機の台頭もあって利用は減少していますが、道央と道東を結ぶ主要ルートには変わりなく、なくてはならない路線です。

ただ、こちらも短絡という性格上、そして日高山脈を横断する形で敷設されているので、山々の民家の何もない場所を走行します。数多く信号場が設置されていますが、元々は旅客駅を設置する予定だった場所で、利用が見込めないという理由で信号場として機能しています。

これがもし、工事が途中で凍結して占冠駅までしか開業しなかった場合、おそらく美幸線のように大赤字路線となり、JR北海道が単独で維持することが困難な路線に指定されていたことでしょう。事実、隣のトマム駅になりますが、2016年の台風豪雨で石勝線が寸断された際、1日に数本の列車と代行バスが用意され、道央と道東を結んだものの、利用は極端に落ち込みました。連日ほぼほぼ空気輸送で、列車の本数を大幅に削減した状況でそうした事態に陥りましたから、ここで改めて短絡路線の欠点を知ったわけです。

たとえ乗継で結んだとしても、やはり直通運転でなければ意味をなさず、この場合は所要時間が大幅にかかってしまうという理由もありました。


北海道の鉄道の場合、石炭産業などの維持拡大のために国策で鉄道が敷かれ、人口密度を度外視して鉄道ができた歴史的経緯があります。また、戦争の時期と重なり、不要不急路線としてレールが撤去、開業が先送りされ、結局は工事が凍結のまま廃止になったり、開通しても今度は過疎化や沿線産業の衰退、トラック輸送へシフトされるなどで鉄道路線としての意味がなくなり、結局短命に終わってしまった路線がほとんどでした。

国鉄敷設法が施行された当初は、北海道は道路が普及していなかったと思われ、産業の推進と合わせて道内に細かく路線が敷かれていったと思います。しかし、道路が急速に普及し、輸送手段としてトラックが急速に普及すると、輸送コストのかかる鉄道は敬遠され、産業の輸送のために生まれた路線は使命を終えていきました。

なので、万が一にもそうした産業のために生まれた路線を維持していくためには、やはり沿線人口を増やし、定期的な利用者を確保するしかありません。政府が少子化についてついに大きな問題として取り上げるようになりましたが、もはや手遅れなのです。

定期的な利用者を確保するためにも最低でも15年、20年はかかるでしょう。もはや観光にばかり頼ってはいられないのです。

このあたりは、今後取り上げる予定の「鉄道ルネサンス構想」でも紹介していきます。










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コメント
12048: by ツナ缶 on 2022/12/04 at 23:07:11

延伸計画が凍結した理由は違いますが、三重県に名松線という路線がありまして。現在、輸送密度は195人・営業係数が500円程でJR東海の中でダントツに利用者が少ない路線です。以前の伊勢湾台風で線路が寸断された時に、JR東海側は被害区間の廃止を公表しましたが、地元からの強い存続の要望と多額の支援により、なんとか廃止を免れました。こちらも名張と松坂(おそらく関西〜伊勢)の間を短絡する用途で敷設されたため、この間の利用は考えられてないものかと思われます。廃止の責任をJRに押し付ける強者の自治体もいますが、それは利用者増加をなかなか促さなかった自治体も責任を持たざるを得ないと思います。ただ、建設したのは国鉄時代以上、廃止に至る責任を鉄道会社と地方自治体とは別に国も持たなければならないと思います。

12054:嗚呼、美幸線。 by 天寧 on 2022/12/05 at 17:54:07 (コメント編集)

こんにちは。
美幸線は函館在住時の昭和59年9月に乗りに行きました。
確かにどこを目指しているのかよく分からない路線でしたね。
辺渓と仁宇布の間の駅間が非常に長かったこと、仁宇布が有人駅だったことを覚えています。
どんどん山奥へ入っていって突然プッツリと終わっているという印象でした。
それでも駅構内はきちんと手入れがされ、美深・仁宇布いずれの駅も交通機関としては一応機能していたような感じでしたが、1両きりのキハ22はガラ空きでしたね。
国鉄だったから維持していたようなもので、民営だったら存在そのものが考えられない路線だったと思います。
ちなみにこの旅行では興浜南・北線、渚滑線、相生線、岩内線にも乗りました。
当時「フリーきっぷ」のようなものはなく、青函連絡船で青森まで行って「北海道ワイド周遊券」を購入して乗り回してましたよ。

12055: by 礼文 on 2022/12/05 at 21:02:14

本州ではこういった短絡線はほくほく線や智頭急行のように三セク化していますね。
石勝線は元から帯広釧路方面を目指していたのでいずれ全通はしていたでしょうが、民営化に間に合って良かったと思います。

ですが美幸線の場合たとえ全線開通したとしても終点となる町が人口1万未満の場所ですから、特急を走らせた所で維持は難しかったようにも思えます。
毛ガニ漁日本一で魚介類の観光資源を持ってしても、最盛期が冬では充分な雪害対策を施した高規格線路でないと道北では観光特急として充分な働きを見込めません。
いずれにせよ短絡線を敷設した事が、特急誘致に繋がり観光需要として時流的に成功したはずです。
それが経営に大きな重しとなり廃止議論を行おうにも大きく影響し、更に難しい舵取りを迫られる事になったでしょう。

12058: by 管理人 on 2022/12/05 at 23:10:29

>>ツナ缶さん、コメントありがとうございます。

鉄道を残すべきと主張している自治体というのは、そもそも考え方を勘違いしています。自治体があるから鉄道があるのであって、鉄道があるから自治体があるのではないんですね。

確かに北海道の場合、産業の進展とともに鉄道が敷設されてきた経緯がありますから、逆に発展してきた過程においては鉄道があるから自治体ができた、町ができたというのは正しいのかもしれません。

ただ、逆のことをしようとする場合は、それと正反対で物事を進めるのではなく、やはり収益がなければ意味がないので、だったら各自治体で利用者を増やしたり、人口増やしたりしてもらわないとダメなんですよね。それで筋を通すのであれば、道や国の介入は必要ですよ。

12059: by 管理人 on 2022/12/05 at 23:15:39

>>天寧さん、コメントありがとうございます。

駅数の割には、距離が長いのが美幸線です。しかも踏切もほとんどなかったはずです。

仁宇布駅は昔鉄道ファン誌で駅員が常駐しているような姿の写真は見ました。駅構内も広く、将来的には歌登とともに中間の拠点として機能していく予定だったと思います。

コメントに記載されている路線は、全て管理者が生まれる前に廃止になった路線です。結構面白いダイヤ・列車もあって昔の時刻表を買ってきて眺めています。

12060: by 管理人 on 2022/12/05 at 23:23:26

>>礼文さん、コメントありがとうございます。

当時は北見枝幸などの地方でも急激な人口減少は意識されていなかった時代。便利にするためならイケイケ状態だったと思います。人口減少時代になった今では完全に不要になりました。

美幸線の場合、短絡目的でも将来的な高速化が難しい路線だったと思います。当初の予定どおり全通し、存続していたとしてもやはり厳しい位置に立たされることは変わりなかったと思います。

道北方面は如何せん距離が長いので、仰るとおり高規格線路でないと冬季の輸送のみならず、存続自体難しいと思います。

12062: by 龍 on 2022/12/06 at 03:04:50 (コメント編集)

美幸線の未成区間に使用される予定だったレールと枕木は、廃線後に歌登駅の建設予定地から搬出され、海峡線の北海道側(青函トンネル〜木古内駅間の一部)に転用されました。ところが、建設主体であった日本鉄道建設公団(2003年に運輸施設整備事業団と統合され、現在は鉄道建設・運輸施設整備支援機構)が枝幸郡歌登町(2006年の市町村合併により現在は枝幸郡枝幸町の一部)に事前の照会をせずに資材をトレーラーで搬出しようとしたため、歌登町の住民が反発。1985年10月の作業開始から1986年2月までの間、除雪車をバリケードにして歌登駅の建設予定地に繋がる道路を封鎖してしまい、搬出作業が妨害される騒動に発展しました。

12067: by 管理人 on 2022/12/08 at 23:41:33

>>龍さん、コメントありがとうございます。

それはウィキペディアで読みました。結構大きな衝突だったみたいですね。

歌登は当時、急行「天北」で小頓別からバスでアクセスしていたはずです。そちらの方が利便が高かったのでは?と思ってしまいます。

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