日本一の赤字路線だった美幸線〜今も残る廃線跡
その他あれこれ - 2022年12月04日 (日)
北海道の赤字路線でも救いようのないレベルの路線だってあったのです。
その1つが全国一の赤字路線と言われた美幸線。

現在の宗谷本線の美深駅と仁宇布駅を結んでいました。
仁宇布駅はあくまでも当初の予定の途中の駅。「美」は美深町の美、「幸」は北見枝幸の幸で美幸線です。元々は北見枝幸まで結ぶ計画があった路線でした。
同線の目的は、北海道北部開発の拠点であった北見枝幸と宗谷本線を短絡する目的で計画された路線です。また、札幌や旭川といった大都市へも、美幸線がなければ、興浜北線が天北線の浜頓別駅に接続して南下するルートか、全通が予定されていた興浜線が雄武(おむ)で興浜南線に接続し、興部で名寄本線に接続する2通りがありましたが、いずれも遠回りで長年にわたって請願が続けられていました。
1976年に全線開業予定でしたが、1979年に完成間近で工事は凍結され、全線開業には至りませんでした。路盤がほぼ完成していた北見枝幸~歌登間を先行開業させる動きも一時ありましたが、興浜線などのように分断されたままになることを危惧した沿線は、あくまで一括開業にこだわり、結局開業することなく廃止されました。
元々は北見枝幸と札幌や旭川を短絡する目的の路線だったため、部分開業は想定されておらず、既開業区間の輸送は極めて少なく、国鉄最悪レベルの赤字路線となりました。営業係数(100円の営業収入を得るのにどれだけの営業費用を要するかを表す指数)も晩年は4,731、輸送密度は24人/日でした。
実際に沿線は途中駅があった場所でも民家(農家)は数軒で、原則として何もない場所に敷設された路線でした。もちろん、1981年に第1次特定地方交通線に指定され、1985年9月17日に廃止されました。
美幸線は第1次特定地方交通線の中で唯一、1日の利用者が100人を切っていた路線でした。100円の収入を得るのに、5,000円弱損失しなければなりません。
ここで現在の様子。とはいえ、撮影は2年前です。


終着の仁宇布駅は、有志らの手によってトロッコ王国美深となっています。春から秋にかけての営業で、今年度の営業は終了しました。美深駅から車で30分、デマンドバスがあるそうですが、事前予約が必要のようです。


トロッコ王国の敷地内には、道内でも数少ない583系が!581系といった方がよろしいのでしょうか?
「サハネ581-19」が置かれています。訪問時が晩秋で既に営業が終わっていたので、ブルーシートで冬囲いしていました。



トロッコ体験区間については、線路はそのままの状態で残っています。

美深方に行けば線路は撤去されていますが、橋梁などの廃線跡はいまだに残っています。


仁宇布市街はこんな感じ。コンビニすらないです。
元々が短絡目的という性格上、途中の区間についてはあまり意識されません。北海道では似たような例で石勝線があります。
石勝線も旧夕張線を延伸し、札幌と十勝地方を短絡する目的で敷設されました。現在は並行して高速道路が伸び、航空機の台頭もあって利用は減少していますが、道央と道東を結ぶ主要ルートには変わりなく、なくてはならない路線です。
ただ、こちらも短絡という性格上、そして日高山脈を横断する形で敷設されているので、山々の民家の何もない場所を走行します。数多く信号場が設置されていますが、元々は旅客駅を設置する予定だった場所で、利用が見込めないという理由で信号場として機能しています。
これがもし、工事が途中で凍結して占冠駅までしか開業しなかった場合、おそらく美幸線のように大赤字路線となり、JR北海道が単独で維持することが困難な路線に指定されていたことでしょう。事実、隣のトマム駅になりますが、2016年の台風豪雨で石勝線が寸断された際、1日に数本の列車と代行バスが用意され、道央と道東を結んだものの、利用は極端に落ち込みました。連日ほぼほぼ空気輸送で、列車の本数を大幅に削減した状況でそうした事態に陥りましたから、ここで改めて短絡路線の欠点を知ったわけです。
たとえ乗継で結んだとしても、やはり直通運転でなければ意味をなさず、この場合は所要時間が大幅にかかってしまうという理由もありました。
北海道の鉄道の場合、石炭産業などの維持拡大のために国策で鉄道が敷かれ、人口密度を度外視して鉄道ができた歴史的経緯があります。また、戦争の時期と重なり、不要不急路線としてレールが撤去、開業が先送りされ、結局は工事が凍結のまま廃止になったり、開通しても今度は過疎化や沿線産業の衰退、トラック輸送へシフトされるなどで鉄道路線としての意味がなくなり、結局短命に終わってしまった路線がほとんどでした。
国鉄敷設法が施行された当初は、北海道は道路が普及していなかったと思われ、産業の推進と合わせて道内に細かく路線が敷かれていったと思います。しかし、道路が急速に普及し、輸送手段としてトラックが急速に普及すると、輸送コストのかかる鉄道は敬遠され、産業の輸送のために生まれた路線は使命を終えていきました。
なので、万が一にもそうした産業のために生まれた路線を維持していくためには、やはり沿線人口を増やし、定期的な利用者を確保するしかありません。政府が少子化についてついに大きな問題として取り上げるようになりましたが、もはや手遅れなのです。
定期的な利用者を確保するためにも最低でも15年、20年はかかるでしょう。もはや観光にばかり頼ってはいられないのです。
このあたりは、今後取り上げる予定の「鉄道ルネサンス構想」でも紹介していきます。
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その1つが全国一の赤字路線と言われた美幸線。

現在の宗谷本線の美深駅と仁宇布駅を結んでいました。
仁宇布駅はあくまでも当初の予定の途中の駅。「美」は美深町の美、「幸」は北見枝幸の幸で美幸線です。元々は北見枝幸まで結ぶ計画があった路線でした。
同線の目的は、北海道北部開発の拠点であった北見枝幸と宗谷本線を短絡する目的で計画された路線です。また、札幌や旭川といった大都市へも、美幸線がなければ、興浜北線が天北線の浜頓別駅に接続して南下するルートか、全通が予定されていた興浜線が雄武(おむ)で興浜南線に接続し、興部で名寄本線に接続する2通りがありましたが、いずれも遠回りで長年にわたって請願が続けられていました。
1976年に全線開業予定でしたが、1979年に完成間近で工事は凍結され、全線開業には至りませんでした。路盤がほぼ完成していた北見枝幸~歌登間を先行開業させる動きも一時ありましたが、興浜線などのように分断されたままになることを危惧した沿線は、あくまで一括開業にこだわり、結局開業することなく廃止されました。
元々は北見枝幸と札幌や旭川を短絡する目的の路線だったため、部分開業は想定されておらず、既開業区間の輸送は極めて少なく、国鉄最悪レベルの赤字路線となりました。営業係数(100円の営業収入を得るのにどれだけの営業費用を要するかを表す指数)も晩年は4,731、輸送密度は24人/日でした。
実際に沿線は途中駅があった場所でも民家(農家)は数軒で、原則として何もない場所に敷設された路線でした。もちろん、1981年に第1次特定地方交通線に指定され、1985年9月17日に廃止されました。
美幸線は第1次特定地方交通線の中で唯一、1日の利用者が100人を切っていた路線でした。100円の収入を得るのに、5,000円弱損失しなければなりません。
ここで現在の様子。とはいえ、撮影は2年前です。


終着の仁宇布駅は、有志らの手によってトロッコ王国美深となっています。春から秋にかけての営業で、今年度の営業は終了しました。美深駅から車で30分、デマンドバスがあるそうですが、事前予約が必要のようです。


トロッコ王国の敷地内には、道内でも数少ない583系が!581系といった方がよろしいのでしょうか?
「サハネ581-19」が置かれています。訪問時が晩秋で既に営業が終わっていたので、ブルーシートで冬囲いしていました。



トロッコ体験区間については、線路はそのままの状態で残っています。

美深方に行けば線路は撤去されていますが、橋梁などの廃線跡はいまだに残っています。


仁宇布市街はこんな感じ。コンビニすらないです。
元々が短絡目的という性格上、途中の区間についてはあまり意識されません。北海道では似たような例で石勝線があります。
石勝線も旧夕張線を延伸し、札幌と十勝地方を短絡する目的で敷設されました。現在は並行して高速道路が伸び、航空機の台頭もあって利用は減少していますが、道央と道東を結ぶ主要ルートには変わりなく、なくてはならない路線です。
ただ、こちらも短絡という性格上、そして日高山脈を横断する形で敷設されているので、山々の民家の何もない場所を走行します。数多く信号場が設置されていますが、元々は旅客駅を設置する予定だった場所で、利用が見込めないという理由で信号場として機能しています。
これがもし、工事が途中で凍結して占冠駅までしか開業しなかった場合、おそらく美幸線のように大赤字路線となり、JR北海道が単独で維持することが困難な路線に指定されていたことでしょう。事実、隣のトマム駅になりますが、2016年の台風豪雨で石勝線が寸断された際、1日に数本の列車と代行バスが用意され、道央と道東を結んだものの、利用は極端に落ち込みました。連日ほぼほぼ空気輸送で、列車の本数を大幅に削減した状況でそうした事態に陥りましたから、ここで改めて短絡路線の欠点を知ったわけです。
たとえ乗継で結んだとしても、やはり直通運転でなければ意味をなさず、この場合は所要時間が大幅にかかってしまうという理由もありました。
北海道の鉄道の場合、石炭産業などの維持拡大のために国策で鉄道が敷かれ、人口密度を度外視して鉄道ができた歴史的経緯があります。また、戦争の時期と重なり、不要不急路線としてレールが撤去、開業が先送りされ、結局は工事が凍結のまま廃止になったり、開通しても今度は過疎化や沿線産業の衰退、トラック輸送へシフトされるなどで鉄道路線としての意味がなくなり、結局短命に終わってしまった路線がほとんどでした。
国鉄敷設法が施行された当初は、北海道は道路が普及していなかったと思われ、産業の推進と合わせて道内に細かく路線が敷かれていったと思います。しかし、道路が急速に普及し、輸送手段としてトラックが急速に普及すると、輸送コストのかかる鉄道は敬遠され、産業の輸送のために生まれた路線は使命を終えていきました。
なので、万が一にもそうした産業のために生まれた路線を維持していくためには、やはり沿線人口を増やし、定期的な利用者を確保するしかありません。政府が少子化についてついに大きな問題として取り上げるようになりましたが、もはや手遅れなのです。
定期的な利用者を確保するためにも最低でも15年、20年はかかるでしょう。もはや観光にばかり頼ってはいられないのです。
このあたりは、今後取り上げる予定の「鉄道ルネサンス構想」でも紹介していきます。
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