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4年ぶりの苗穂工場一般公開その4

今回をもって、今年の苗穂工場の一般公開の様子は終わりです。

最後は、「C62-3」号機の牽引運転。



真正面から撮影するだけでも迫力があります。苗穂工場で保管されており、夏季は屋外で展示され、鉄道技術館の一般公開のつど見ることができます。

牽引運転は苗穂工場一般公開時の恒例行事で、コロナ禍や天災などで一般公開が中止とならなければ、毎年実施されています。





逆側から撮影してみました。

牽引運転とはいえ、「C62-3」号機に火を入れるわけでもなく、動力源でもありません。あくまで連結して苗穂駅の自由通路までを行き来するだけのもので、動力源は苗穂工場の入換機。

その入換機は車番のプレートは取り外されていますが、「DE15-1520」号機です。かつて運行された「SLニセコ号」の補機として使用された機体のようで、2016年度末で既に廃車になっています。

苗穂工場の入換機は、こうした廃車になった車両を再度活用しています。日本でも数少ない車籍を持たない稼働車両です。

中間のキハ150形に牽引運転の体験乗車ができ、中間の車両は過去にキハ40形だったりと、その年によって変わります。このキハ150形も苗穂工場に入場してから長いはずで、この車両も次の活躍場所は函館エリアになるのでしょうか?

管理者も「C62-3」号機が本来の姿で動いている様子を確認したことはありません。ここまで大切に手放すことなく残しているので、いずれは復活してほしいですが、やはりメンテナンス等の関係で難しいと思います。

準鉄道記念物にも指定されており、冬季は建屋内で保管されます。今後も可能な限り綺麗な状態を維持していってほしいですね。











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12871: by 龍 on 2023/10/03 at 00:21:42 (コメント編集)

第二次世界大戦の際、戦時物資輸送用の貨物用蒸気機関車としてD51形・D52形が大量生産されましたが、終戦後は軍事輸送の廃止と工業生産の低下で貨物需要が激減し、大量に余剰が発生しました。一方、生活物資の買出しや戦地・植民地からの復員・引き揚げ輸送の影響で旅客需要が激増しましたが、戦時中は旅客用蒸気機関車の製造が中止されていたため、こちらは極端に不足する事態に。特に幹線用の大型機は既存のC57形・C59形の増備だけではとても追いつかず、石炭の質の悪化による性能低下を補うべく、C57形・C59形より大型で強力な機関車を製造する必要がありました。しかし、当時のGHQの方針や資材そのものの不足もあって機関車を一から新製することは困難だったため、余剰となっているD51形・D52形のボイラーを転用し、走行装置など他の部品はC57形・C59形の設計を流用して組み合わせ、書類手続き上は「貨物用機関車の旅客用機関車への改造」とすることで誕生したのが、C61形(D51形のボイラー+C57形の走行装置)とC62形(D52形のボイラー+C59形の走行装置)です。このため、実質的には新造車ですが車籍はそれぞれボイラーの転用元であるD51形・D52形から引き継がれています。

こうしてC62形は、当時の貨物用・旅客用では当時最大級の機関車の部品を組み合わせて誕生しました。D52形の大型ボイラーとC59形の大直径動輪を組み合わせたため、車両限界に抵触しないように煙突は太く短めのものとし、蒸気溜りと砂箱を覆うキセも幅広で扁平な形が採用されています。外見上で最も分かりやすい特徴が汽笛の取り付け方で、車両限界内に収まるように垂直ではなく後方に傾斜しています。

その巨体もさることながら、重量も最大級でした。軸配置は従来の2C1(先輪2輪+動輪3輪+従輪1輪の意味)では軸重が特別甲線の上限(16.08t)を超過してしまうため、従輪を2軸とした2C2(先輪2軸+動輪3軸+従輪2軸の意味)にして軸重を16.08tに収めました。この仕様で落成したC62形は原設計形と呼ばれ、特別甲線である東海道本線・山陽本線・呉線で電化まで活躍しました。参考までに、DF200形ディーゼル機関車の軸重は16.0tです。

一方、原設計形は甲線である東北本線・常磐線・函館本線には軸重の関係で入線できない区間があったため、軸重を14.9tへ引き下げた仕様の機(軽軸重形)が使われました。元々この仕様で落成したものの他、東海道本線・山陽本線・呉線の電化進展で余剰となった原設計形に軸重軽減改造を実施して転用したものがあります。北海道では長万部駅〜小樽駅間への入線が原設計形では不可能だったため、原設計形から軽軸重形に改造されたものが東海道本線・山陽本線・呉線から転用されました。C62 3は原設計形として東海道本線・山陽本線で活躍後に北海道へ渡り、苗穂工場で軸重軽減改造を実施した上で本線試運転を行った最初のC62形なのです。なお、参考までにDD51形ディーゼル機関車の軸重は14.0tまたは15.0t(可変)です。

12873: by 快速エアポート 拓北 on 2023/10/05 at 17:23:23

今回のC62-3牽引でいつもはキハ40の300番台が担当していたのに今年はキハ150が担当になりましたね。40の300番台生存はしてるのでしょうか?なのであればあと近くで全車解体になると思いますから見ておきたいですよね。40で運用している旭川行き普通列車は多分737系で大丈夫ですね。

12879: by 管理人 on 2023/10/18 at 01:02:37

>>龍さん、コメントありがとうございます。

詳しい情報をありがとうございます。D51形の一部は台湾とソ連にも輸出されていたはずです。それを含めて1100機以上が製造されたと思います。

記載のとおり、戦時下を経てC61形へ新製ではなく、改造とすることで、当時の政府財政が逼迫していた最中、会計上の規制をクリアしました。

機関士からも扱いやすい機関車と評され、北海道では函館本線山線や室蘭本線、現在の石勝線である夕張線で使用されていたはずです。旅客列車でも使用され、山線で重連運転を行ったものの、高速運転による部品の摩耗が激しく、加えて検修の負担や連続力行による乗務員の負担が増えたことで、ようやくここでC62形に置き換えられて、その後DD51へと置き換えていく流れだったと思います。

管理者のまだ生まれる前でしたが、手宮線を活用して動態復元へ持っていく話は、今となっては考えられないような内容です。小樽市の手宮線観光地化でそう簡単に当時の札幌鉄道管理局から予算が下りるものかと不思議に思います。それ以前から復活運転に向けた車両の調査等がSL検修担当のOBらが実施していたようですから、予算の関係でどうにでもなった話だと思いますが、修繕不可の箇所もあったようなので、よく復活運転に漕ぎ着けたものです。

そのような歴史があれば、JR北海道が頑なに売却、譲渡などを含めて手放さない理由もわかります。現在は静態保存だけで精一杯ですが、いつか状況が整ったら本線状を走る同機の姿を見てみたいです。

12884: by 管理人 on 2023/10/19 at 23:39:30

>>快速エアポート 拓北さん、コメントありがとうございます。

40の300番台は苗穂工場に入場している車両もあったはずです。牽引車両はどのように選定されるのか不明ですが、150を牽引する様子は初めて見ることができたのでよかったです。

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